雪下 岳彦さん(後編)
Moderna- 26 September 2023
自身を変えられるつよさと、折れない心<後編>
スポーツにおける事故は、多くの人が経験しているでしょう。しかし雪下岳彦さんが負ったのは脊髄損傷。一瞬にして人生の道筋を変えうる重大なけがでした。
医学部最後の年にラグビーの試合で脊髄損傷を負った雪下岳彦さんですが、卒業試験に合格し、翌年には念願の医師免許を取得。心理学を学ぶためアメリカへ渡り、法律に基づいたバリアフリー施設など車いす利用者が生活しやすい社会を体験しました。帰国後は順天堂大学の非常勤講師をしながら、スポーツチームのメディカルサポートやスポーツ庁参与なども務めました。
初めて“チームドクター”となった喜びと感謝
2019年からは順天堂大学スポーツ健康学部の非常勤講師を務めている雪下さん。翌年、順天堂医院・浦安病院が千葉ロッテマリーンズに対し全面的なメディカルサポートを行うこととなり、雪下さんは小林弘幸教授とともにコンディショニング・栄養管理部門を担っています。
「スポーツ栄養はここ10年ほどで定着してきた分野で、スポーツの世界では常識になりつつあります。若い選手は栄養管理の土台ができているという印象ですが、ベテランの選手はやはりこれまでの自身のノウハウがあるので、そこは押しつけすぎずに、といった感じです。管理栄養士さんも関わっていて、その方が選手からの信頼もかなり厚いので、今は管理栄養士さんの活動をサポートしている感じですね」。
期せずして舞い込んできた千葉ロッテマリーンズのチームドクターという仕事は、雪下さんにとって特別なものだったようです。
「これまでもさまざまなチームに関わりましたが、いずれもサポートやアドバイザーのような役割でした。千葉ロッテマリーンズでは初めて『チームドクター』という役職を与えられたので、すごく感謝しています。そもそも整形外科じゃない医師がチームドクターとして関わること自体がめずらしいですから。それが日本のプロスポーツの代表格であるプロ野球に関われるなんて、なろうと思ってもできることではないし、夢にも思いませんでした。千葉県民でもあるので、ラッキーとしか言いようがないですね。もうファンクラブにも入ったし、グッズも買って、毎試合見ていま
千葉ロッテマリーンズでチームドクターをしている雪下岳彦さん
雪下さんがけがで入院している頃、髙澤祐治教授に言われた言葉があります。
「まだ先が見えないような状態の時に、『雪下にしかできないことがあるよ』と言ってくださって、それが今までも、これからも支えになる言葉だと思います。こういう体の状態になった時点で他の人と同じことができなくなっちゃっているわけですが、裏を返せば自分にしかできないこともあるんだと、そう考えることで気が楽になりました」。
髙澤教授の言葉が後押しとなって、アメリカ留学や自律神経の研究などさまざまなアクションを起こし、その積み重ねがこうして雪下さんにしかできない仕事を引き寄せているのでしょう。
理想の車いす席を新スタジアムに作りたい
医師であることを基軸にスポーツとも関わりを持ちさまざまな活動をしてきた雪下さんですが、この先やってみたいことはあるのでしょうか。
「正直これまでも思い描いていなかったことばかり起こってきたので、これからのこともあまり想像はできないんですけど…。個人的に思うのは、ZOZOマリンスタジアムが開場から30年以上経って老朽化してきているので、建て替えられる時に僕が思う最高の車いす席を作るために、何か関われることがあればいいなと思っています」。
球場の建設自体は県など行政が進めるものですが、千葉ロッテマリーンズのチームドクターを務める関わりもあり、何らかの力になりたいと話します。
「スポーツ庁参与の頃にジェフユナイテッド市原・千葉のフクダ電子アリーナに視察に行ったんですが、そこの車いす席がすごく良くて感動したんです。日本のスタジアムなどの施設の車いす席って、ちょっと裏を通って行くところが多いんですが、フクダ電子アリーナはほかの観客と同じ動線で客席まで行けるんですよ。入り口から席までの間に物販やフードのショップがあって、妻と一緒に「おいしそうだね」みたいな話しをしながら席に行ける。それが理想だと思うんですよね」。
車いす利用者もほかの人と分け隔てなく、普通のこととして楽しめるスタジムを作りたい。そんな意志が反映されたスタジアムに、日本で出会えた感動は大きかったようです。
「ジェフユナイテッドの方とお話しすると、設計段階でそういう要望を千葉市の担当者に伝えていたそうなんです。よくぞそんなことをイメージして伝えてくださったなと感動しました。そういう思いを持った人が作れば実現できるんだなって」。
一方で、新しいスタジアムであっても車いす席が少なかったり、車いすからのサイトライン(目線や視界)を十分考慮されていないことも多々あります。東京オリンピック・パラリンピックを経た今でも、日本の競技場は車いす利用者にとって利用しやすい施設とは言えない部分が大きいのです。
「これは僕の言葉ではなくて、何かのメディアでインタビューを受けた車いす利用者が言っていたことですが、裏道や別ルートを通って行かなければならない車いす席は『歓迎されてない気がする』とおっしゃっていました。しょうがなく作ってるみたいな。その言葉がすごく的を射てます。そうじゃなくて、みんなが楽しめるスタジアムがいいですよね」。
雪下さんが思い描く千葉ロッテマリーンズの新しい本拠地は、サンディエゴのペトコ・パークとフクダ電子アリーナ、それぞれの要素をイメージされています。
「ペトコ・パークと同じぐらい砂かぶりレベルでグランドに近い車いす席があって、そこに着くまでにはほかの人たちと同じゲートから入場し、コンコースを通って、ショップを見たりできる動線。ZOZOマリンスタジアムはグルメが充実しているので、そういうのも一緒に楽しみたいですね」。
雪下さんは、スタジアムで感じた感動を多くの車いす利用者と共有し、当たり前にスポーツを楽しめる日が来ることを目指しています。
「SPORTS X Conference 2018」で講演した雪下さん
自身を振り返り、こだわりや偏りを捨て、変わるつよさ
本稿のテーマである“つよさ”について、雪下さんにうかがいました。
「あまり強い、弱いという考え方が好きではないんですが、強いて言うなら、変われることだと思います。もちろん一つのことを貫く強さもあると思いますが、僕はどちらかと言えば局面ごとに自分の考えを変えることで適応してきたことが多いです。精神科の治療方法のひとつに、認知行動療法というものがあります。例えばうつ病になりやすい人には認知の歪みがあると言われていて、物事の捉え方に癖やこだわりがあるんです。その癖が合理的じゃないことで、自分の中で破綻が生じてうつ病になります。それに則ったかたちで、自分の考えを落ち着いてから振り返える、ということを意識的にしています」。
医療の観点も加え、“変わるつよさ”についてこう説明されます。ではどのように考えや見方を変えるのでしょうか。
「例えば何か頭にくることがあったとして、何に頭にきたのかを振り返るんです。なぜ頭にきたのかをはっきりさせて、それに妥当性はあるのかを考える。もし他の考え方ができなかったり認知の歪みのようなものがあったのなら、そういった自分のこだわりはなくていい。そうやって自分の認識を変える作業をするんです」。
自分の思いに頑なになるのではなく、直面する物事の状況を整理し、認識の仕方を柔軟に変える。そういう“つよさ”が行き詰まった考えや局面を打開してくれると言います。
「よくスポーツ選手に対して、メンタルが強いからピンチを切り抜けられる、弱いからダメなんだみたいな見方をしますが、そうじゃないと思うんです。対応の仕方や選択肢が足りなくて、そこをうまく対応できる心理的スキルがあるかないかの違いなのだと思います」。 選手が持っている選択肢が少なくても、その局面にたまたま当てはまればうまく試合を運べるのかもしれませんが、選択肢が多いに越したことはありません。そして選択肢を増やすのは、磨いてきたスキルだけではなく、認知の幅や柔軟性も関わってきます。
加えて普段の心のもちようについてもこう話します。
「やっぱり楽しく過ごすことがまず大事です。ある程度気持ちに余裕がないと何もできないので、あまり一方向を向きすぎず、なるべくご機嫌に過ごせた方がいいですよね。他者を変えるより、そうやって自分を変える方がやっぱり強いと思います」。
雪下さん自身、もともとは一つのことに根を詰めて集中するタイプだったと言います。学生時代に指摘を受け、このままでは自分を追い詰める原因になると考え、徐々に柔軟に視野を広く持つようにしたそうです。
「だから首の骨は折れてしまいましたが、心は折れないように柔らかくしておく。どれだけねじられても折れはしないという感じですね」。
“つよさ”について語ってくださる雪下さん
しなやかで、行動的で、なおかつ“変わるつよさ”を備えた雪下さん。これからも医師としてだけでなく、スポーツへの関わりや車いす利用者といった幅広い視野と柔軟な考え方で、さまざまな提言や活躍をされることでしょう。
◆プロフィール
雪下岳彦(ゆきしたたけひこ)
神奈川県出身
順天堂大学医学部・スポーツ健康科学部非常勤講師、医師・医学博士。順天堂大学医学部6年生の時に、ラグビーの事故で脊髄損傷を負うも、医師免許を取得。アメリカ留学を経て、自律神経、栄養学の研究に携わる。現在は大学で講師を務めるかたわら、東京サントリーサンゴリアス、ジェフユナイテッド市原・千葉、千葉ロッテマリーンズなど、スポーツチームのメディカルサポート、株式会社土屋顧問・土屋総研主任研究員も行っている。